竹井家の葬儀写真4

竹井家の葬儀写真の紹介4回目。今回は、明治45年8月10日に行われた竹井澹如の葬列です。 葬列は、葬儀の行われる熊谷寺へ、中山道の本町付近を西に向かって進んでいます。葬列の僧や見物人の一部に傘をさしている人がいます。8月の暑い日に、当時男性も日傘をさす習慣があったとは思えず、にわか雨が降ったのか、あるいは死穢を覆い隠す習俗だったのかもしれません。葬列奥には棺を運ぶ龕(がん)が担がれており、その…

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竹井家の葬儀写真3

竹井家の葬儀の写真紹介3回目。 築地塀の前で、中央には棺を運んだ龕(がん)が木製の台の上に置かれています。周囲の男性は、輿丁(よてい:輿を担ぐ人)と思われます。右側には、馬車に乗った、シルクハットを被り鞭を持った御者が、左側には、人力車と車夫が写っています。 この築地塀は左手で途切れて、鐘楼と思われる建物の台部が写っており、熊谷寺の門前と判断されます。熊谷寺の本堂で葬儀が行われており、外で終…

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竹井家の葬儀写真2

竹井家の葬儀の写真紹介2回目。今回は、竹井澹如の妻久仁子の葬儀の写真です。 久仁子は、慶應元年(1865)に澹如とともに夫婦養子として、熊谷宿本陣の竹井家に入り、明治44年(1911)に没しました。 1枚目の写真は、葬儀の行われる熊谷寺に向かって、中山道を西に進む葬列が写されています。 遺体を運ぶ龕(がん)が担がれ、その前には左手に黒い喪章をつけた白装束の男性、その前には、10人以上の僧が…

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「踊る埴輪」のAI画像1

「踊る埴輪」をAIで画像化したので紹介します。 今回は『笑う「踊る埴輪」』です。 これから不定期に作品を紹介していきたいと思います。

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竹井家の葬儀写真1

明治45年8月7日に亡くなった、竹井澹如(1839-1912)の葬儀の様子を写した写真を紹介します。 葬儀は、8月10日午後1時に自宅を出発し、熊谷寺で行われました。写真では裏門から家に入る場面が写されていますので、葬儀の後、自宅に戻った際の様子を写したものと思われます。 1枚目の写真は、提灯・旗・花を持った白装束の葬列が、白黒の幕がかけられた板塀の脇を通り、瓦葺きの門から邸内に入ろうとして…

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小八林の供養塔

市内小八林の、春日神社東側の大明神坂を下った路傍に建てられている供養塔を紹介します。 この石碑は、幅30㎝、奥行23.5㎝、高さ82㎝の角柱状を呈しています。石質は安山岩です。 碑表には「奉納供養塔」、右側面には「南よしみくわんおんみち」、左側面には「北日光行田みち」と刻まれています。 道標を兼ねたもので、この道が、吉見と行田を結ぶ古くからの街道であったことがうかがえます。 また、この供…

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竹井澹如書の両聯

竹井澹如が書して、現在も熊谷寺本堂に掲げられている両聯(りょうれん)を紹介します。 両聯とは、中国の伝統的な装飾の1つで、門の両脇や室内の柱などに掲示した、対句を記した掛け物です。 この両聯には「千江有水千江月」「萬里無雲萬里天」と記されており、昭和15年発行の絵葉書に記されているものと同一です。 この「どんな状況でも、あるがままを受け入れれば、すべてが本質を映し出す」という禅の教えを表す…

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きかは便郵164

昔の熊谷地域の絵葉書紹介164回目。今回は、「澹如翁思慕図」です。 「千江有水千江月 萬里無雲萬里天」と記されており、下部に竹井澹如(1839-1912)の肖像が描かれています。 原典は不明ですが、掛け軸になっていたものをスケッチしたものと思われます。 左下には、「昭和十五年四月六日」と記されており、宛名面上端の記載が「きがは便郵」となっていることから、製作年と判断されます。 「…

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斎藤別当実盛のエピソード2

鎌倉時代に成立した『平家物語』に描かれている、斎藤別当実盛のエピソードを紹介します。 治承4年(1180)の静岡県の富士川を挟んで源氏と平氏両軍が対峙した際の、平家軍の陣中での出来事です。 平維盛(たいらのこれもり:1159-1184)が「源氏軍には、実盛ほどの強い弓を引ける武士がどれだけいるのか」との問いかけに、実盛は、「源氏方の東国武士はいずれも屈強な武士たちで、しかも土地にも詳しく、こ…

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吉原雅風の水墨画2

星溪園で所蔵している、吉原雅風(1882-1929)の水墨(淡彩)画の紹介2回目。今回は「須磨」「淡路島」です。 2枚とも海が描かれています。1枚目は、手前に砂浜と松林の中に民家が、遠方には薄っすらと島影が描かれています。 2枚目は、帆掛け船が浮かび、遠方に島か半島のようなものが描かれています。 須磨は、兵庫県神戸市の海岸で、寿永3年(1184)の一の谷の戦いで、熊谷直実(1141-120…

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