岸亦八1

江戸後期から明治初頭の彫師岸家4代の祖、岸亦八(きしまたはち:1791-1877)を紹介します。

寛政4年(1792)、現太田市脇屋の渡辺家4男亦八として生まれました。10歳位の時に現熊谷市川原明戸の飯田仙之助の養子・弟子となったと伝わっています。
しかし、17歳の時に仙之助に実子(岩次郎)が誕生したことにより養子縁組を辞退し、20歳代の終わり頃、仙之助の元を離れ、現太田市山之神で独立しました。
その後、川岸家の婿養子となり、彫物師岸亦八を名乗り、以後4代にわたり、山之神を拠点として活躍し、「彫亦」と呼ばれました。
亦八の名が確認できるのは、熊谷市弥藤吾氷川神社本殿が最も古く、天保7年(1836)であり、その後、越生町龍隠寺経蔵(天保12年:1841)・山門(天保13年:1842)、龍ケ谷熊野神社本殿(天保15年:1844)を手掛けています。
弘化3年(1846)には、前橋藩の公儀奉行所に願い出て、従六位下岸大内蔵藤原義富となり、以後、前橋藩、舘林藩などの公儀彫刻請負主となって活躍しました。
この他、太田市全性寺本堂欄間彫刻・総持寺総門・長建寺欄間彫刻・受楽寺山門、沼田市正覚寺山門(万延元年:1860)、伊勢崎南北千木町屋台(嘉永4年:1851)、桐生市泉龍院本堂欄間彫刻・本町四丁目・五丁目・六丁目屋台、富岡市妙義神社総門烏天狗(文久元年:1861)などを手掛けています。
龍のあごがしゃくれるのが亦八の彫刻の特徴とされています。
弟子に弥勒寺音八(1821-1887)がいる。
明治10年(1877)6月8日、86歳で没し、現群馬県太田市山之神の共同墓地に葬られました。
戒名「寶鶴義道居士」。
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